10月7日に放送される土曜プレミアム「衝撃スクープSP 30年目の真実~東京・埼玉連続幼女誘拐殺人犯・宮崎勤の肉声~」宮崎勤元死刑囚の肉声と徹底取材を基に、事件発生から30年がたつ「東京・埼玉幼女連続誘拐殺人事件」を実録ドラマで再現。今回は宮崎勤事件の詳細、生い立ちやドラマのキャストやあらすじについてまとめました。
宮崎勤事件のドラマのキャストやあらすじは?
あらすじ
昭和と平成をまたいだ史上最悪の事件「東京・埼玉幼女連続誘拐殺人事件」発生から30年目を迎えた今年…フジテレビ報道局が空前のスクープを独占入手!
今まで誰の目にも触れることのなかった、宮崎勤元死刑囚の「肉声」を初公開します。そこから見えてきたものは、これまで私たちが持っていたイメージを大きく覆す、宮崎の意外な人物像でした。
フジテレビ報道局による関係各所への徹底取材を元に、当時の報道やワイドショーの映像も使用しながら、史上最悪の事件を追う「刑事の戦い」をドキュメンタリードラマ化しました。
宮崎勤とは一体何者だったのでしょうか?部屋には大量のビデオ、雑誌、漫画。“今田勇子”の告白文。
「犯行は覚めない夢の中でやった」
「ネズミ人間が現れた」
「犯行は死んだ祖父を復活させるための儀式」
「少女の遺体を焼いて食べた」
などの発言…幾度となく精神鑑定が行われ、その一挙手一投足が注目されました。当時の報道・ワイドショーは戦後の犯罪史上類を見ない劇場型犯罪を大々的に報じましたが、彼の本当の姿を知ることはできなかったのです。
そもそも警察はどのようにして宮崎にたどり着き、そして逮捕することができたのでしょうか?30年という時を経て明らかになる肉声、そして当時の捜査関係者への徹底取材を元にドラマ化することで、誰も知らなかった宮崎勤事件の真実が明かされます!
http://www.fujitv.co.jp/fujitv/news/pub_2017/170924-i348.html
キャスト
・金子ノブアキ(警視庁捜査一課殺人五係 警部補)
・秋元才加(ワイドショーリポーター)
・小木茂光(警視庁捜査一課殺人五係係長 警部)
・矢柴俊博(警視庁捜査一課殺人五係巡査部長)
・遠藤久美子(警部補の妻)
・桜田通(ワイドショーディレクター)
・坂本真(宮崎勤)
出典:http://www.at-production.jp/talent/122.html
・ダンカン(宮崎勤の父親)
放送日時
10月7日(土)21時~23時10分
あまりにも悲惨な事件でいくら30年経つとはいえドラマ化される意味はあるのだろうか?被害者家族の方に充分配慮した描写であれば良いけど。結局、事件の全容は未解明のままで宮崎勤は死刑執行されてしまった。ドラマの最後が興味深い。
宮崎勤事件の詳細は?
第1の事件
1988年8月22日(月)Aちゃん(当時4歳)行方不明になり、母親が110番通報。しかし、誘拐が疑われるも犯人から連絡がない。周辺の捜索など行ったものの手掛かりないため公開捜査をすることに。狭山署内に150人体制で「入間市春日町内における幼女失踪事案捜査班」を設置。
第2の事件
1988年10月3日(月)Bちゃん(当時7歳)行方不明。父親が110番通報し、同じく誘拐を疑われるも犯人から連絡なし。
埼玉県警本部から捜査一課も招集されたが動きなく翌日には公開捜査へ。飯能署内に95名体制の「飯能市内の少女行方不明事案捜査班」を設置。
第3の事件
1988年12月9日(金)Cちゃん(当時4歳)行方不明。母親が110番通報し、同じく誘拐が疑われる。
埼玉県警はわずか半年で県内西部で3人の少女が行方不明となる異常事態に、川越署内に150名体制の「川越市古谷地内における幼女行方不明事案捜査班」を設置。
12月15日(木)名栗村地内の山林から全裸で手足を縛られた状態のCちゃんの遺体を発見した。
1989年2月6日(月)Aちゃん宅に<A(少女の名前)遺骨 焼 証明 鑑定>と書かれた紙片と骨片などが入ったダンボールが届く。
2月10日(金)Aちゃん事件に関する「今田勇子」の名で朝日新聞東京本社に犯行声明文が届く。
2月11日(土)同じ犯行声明文がAちゃん宅に届く。
3月11日(土)「今田勇子」名の告白文が朝日新聞東京本社とAちゃん宅に届く。
第4の事件
1989年6月6日(火)江東区東雲の団地に住むDちゃん(当時5歳)が行方不明。同日、母親が派出所に届け出。
6月10日(土)に一部新聞が行方不明事案を書いたため公開捜査に切り替え。広報に至る。
6月11日(日)埼玉県飯能市内にある宮沢湖霊園内で墓参りに来た会社員によって霊園内のトイレで幼女の全裸遺体を発見される。
「飯能市宮沢地内における身元不明少女死体遺棄事件捜査本部」を設置。
警視庁にも連絡あり、死体(年齢、身長や特徴から)がDちゃんである可能性が高いとみて深川警察署内に「Dちゃん誘拐殺人死体遺棄事件捜査本部(その後に改称)」を設置。
司法解剖後胃の内容物(直前の昼食内容と一緒)、血液型(当時はDNAなし)、右膝下のアザ、死後経過時間、遺族の確認などから死体はDちゃんと確認。
玉県警飯能署にも「警察庁準指定第4号事件Dちゃん誘拐殺人・死体遺棄事件特別捜査本部」が設置され警視庁と埼玉県警の合同捜査本部ができる。
宮崎勤が逮捕された!
警視庁の捜査本部では昭和62年以降に少女を対象とした「誘拐事件」「わいせつ事件」「強姦事件」「逮捕監禁事件」について各所の報告を求め、事件の掘り起こしを行っていた。
そこへ7月24日付け警視庁八王子署長より強制わいせつ被疑者の検挙が報告された。それが宮崎勤だった。
1989年8月9日 – Dの○害を自供。
1989年8月10日 – Dの頭部発見。犯人のマスコミ報道が始まる。
1989年8月11日 – Dの誘拐・○人・死体遺棄の容疑で再逮捕。
1989年8月13日 – A・Cの誘拐○人を自供。
1989年9月1日 – 警察庁広域重要指定117号に指定。
1989年9月2日 – 検察が起訴に踏み切る。
1989年9月5日 – Bの○害を自供。
1989年9月6日 – 五日市町でBの遺骨発見。
1989年9月13日 – Aの遺骨発見。
宮崎は裁判で幼女を○すたび、自宅に藁人形を置いて部屋を暗くし、頭に鉢巻きをして蝋燭を数本付け、黒っぽい服を身に付け手を上げ下げし、祖父復活の儀式を執り行ったと主張した。
2008年6月17日、東京拘置所で死刑が執行。
宮崎勤の生い立ちとは?
宮崎勤は1962年8月21日、東京都西多摩郡五日市町(現あきる野市)の裕福な家庭の長男として生まれた。実家は新聞会社を経営。宮崎家は曽祖父は村会議員、祖父は町会議員を務めており、地元の名士であった。同居している人は祖父、祖母、両親、妹二人の7人。
両親は共稼ぎで大忙しだったため両親は30歳ぐらいの知的障害を持つ男性を住み込みで雇用して幼い宮崎勤の面倒をみさせた。
幼い頃から手首を回せず手のひらを上に向けられない「両側先天性橈尺骨癒合症」という、その当時の日本には150ほどしか症例のない珍しい身体障害であった。このせいで、幼稚園ではお遊戯や頂戴のポーズもできず、まわりからからかわれても幼稚園の先生は何も対応しなかったため「非常に辛かった」と供述している。
小学生時代は「怪獣博士」と呼ばれるほど怪獣マニアになったが、クラスの人気者というわけではなかった。成績は上位であって、小学校の頃から算数(数学)が得意と語っており、英数の成績は良かった。
中学生時代は1、2年生の時には陸上部、3年生の時には将棋部に所属し、負けた時は異常なくらい悔しがり、色々な攻略本を読み、負けた相手には必ず勝つまで勝利にこだわり抜いた。
高校時代は手の障害を気にし、自宅から片道2時間もかかる男子校であった明治大学付属中野高等学校へ進学するが、両親は“英語教師になるためにわざわざ遠い高校へ進学した”と勘違いしていた。
高校に入ってからの成績は下降の一途で、本人は明治大学への推薦入学を希望していたが、クラスでも下から数えたほうが早い成績にまで落ちていたため、その希望は可能とする以前の問題となっていた。
短期大学時代高校卒業後の1981年4月、東京工芸大学短期大学部画像技術科に進学。
俳優の川崎麻世さんは短大の同級生であるが、宮﨑の逮捕時のインタビューでは
「僕は記憶力が良い方だし、クラスは全部で80人ほどだったから、忘れるはずはないんだが、そんな奴いたかって感じなんだ。同級生にも聞いてみたけど、誰も覚えていなかった」
というほど影が薄い存在であった。
1983年4月の短大卒業後は叔父の紹介で、小平市の印刷会社に就職し、印刷機オペレーターとして勤務。しかし、勤務態度は極めて悪く、評判も非常に悪かったため1986年3月に勤めていた印刷会社の上司から転勤を勧められたが本人が拒否した為自己都合退職(実質的には解雇)する。
家業を手伝うよう両親が何度か声をかけたが、自室にこもる生活が数ヶ月続いた(今で言うニート)9月ごろから家業を手伝い始めるが、広告原稿を回収しにいく程度の簡単な手伝いであった。この頃アニメの同人誌を発行するが、態度や言動から仲間に嫌われ、1回だけの発行で終わっている。
その後は数多くのビデオサークルに仲間入りし、全国至る所の会員が録画したテレビアニメや特撮番組のビデオをコピーし交換・収集するようになる。
ビデオサークルでは、他の会員に無理な録画やダビング注文をするため、ここでも仲間から嫌われていた。
1988年5月16日、祖父が死去。このことが余程のショックなのか、8月22日に第一の犯行を起こす。
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