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「星野監督」こと楽天の星野仙一球団副会長が4日に亡くなったことが分かりました。現在は死因は公表されていませんが、激やせしていたので「がん」ではないでしょうか。一部では「膵臓がん」だったと言われています。また、葬儀や告別式の日時や場所はいつっだろうか。これだけ野球界に貢献したひとですから、「偲ぶ会」も行われるはずです。今回は、星野監督についてまとめました。
星野仙一の死因は?
王・長嶋に続いて野球を盛り上げた星野仙一さん。プレイはともかく監督としては素晴らしかったですね。突然の訃報に驚きました。
死因について今の所、公表されていません。
球界関係者によると「がんで闘病していた」といいます。昨年末に体調が悪化し、年末年始を家族とハワイで過ごす予定だったが急遽取りやめていたとのことです。
「膵臓がんでは?」と言われていますが、公表はされていません。死因が「がん」なのかもわかりませんが、星野監督ががんと闘っていたのは間違いないようです。
昨年11月28日に東京で、12月1日には大阪で「野球殿堂入りを祝う会」に出席した際に激やせした姿にnagoyanは驚きました。しかし、これが、最後の晴れ舞台となるとは思いませんでした。
長い間プロ野球を盛り上げてくれて非常に楽しかったです。ゆっくり休んでください。ご冥福をお祈りします。
死因についてはわかり次第、追記します。
星野仙一の葬儀や告別式はいつ?
葬儀や告別式の場所の日程もまだ公表されていません。突然の訃報だったこともあり、これから決めるのでしょう。
これだけの有名な方ですから、参列者も多いはずです。このことから「青山葬儀所・増上寺・築地本願寺」の可能性が高いかもしれません。
星野仙一のプロフィール
相手が強ければ強いほど、「燃える男」。現役時代のキャッチフレーズだった。その原動力が「打倒・巨人」。ドラフトでふられ、憧れの球団は「生涯のライバル」に変わった。中日のエースとして闘争心をむき出しにして投げ、巨人戦は歴代6位タイの35勝で通算146勝を挙げた。沢村賞を受賞した74年にはV10を阻止して優勝したが「日本シリーズは邪魔。俺は巨人を倒したからいいんだ」と言い切ったほど、巨人を倒すことに執念を燃やした。「強い巨人に勝ちたいんや」。その思いは引退後も変わることはなかった。
監督時代は「闘将」と呼ばれ、代名詞は鉄拳制裁だった。「非情と愛情の2つを併せ持つことが大事」という持論を持ち、闘う集団につくり上げた。中日で2度のリーグ優勝。
97年には扶沙子夫人(享年51)を白血病で亡くしたが、グラウンドで戦い続けた。「俺は弱いチームを強くすることが好きなんだ。それが、男のロマンやないか」。反骨心の塊のような男。
02年に低迷していた阪神の指揮を執り、翌03年に18年ぶりのリーグ優勝に導く。楽天監督時代の13年には日本シリーズで宿敵の巨人を破り、4度目の挑戦で初めて日本一監督となった。
2014年にユニホームを脱ぎ、15年に球団副会長に就任。ONとともに球界への影響力は大きく、星野氏も「野球への恩返しの意味でも自分の思いや考えを若い人につないでいきたい」と語り、野球の普及活動に尽力していた。
楽しみにしていた20年東京五輪を前に帰らぬ人となった。あの笑顔はもう見れない。あの怒鳴り声ももう聞けない。
1947年1月22日、岡山県倉敷市に生まれ、岡山県立倉敷商業高等学校で甲子園を目ざし、卒業後は明治大学へ進学。
1968年のプロ野球ドラフト会議で、中日ドラゴンズから1位指名を受け入団。
選手時代のポジションは投手。引退後は、野球解説者、評論家として各種メディアへ出演。1986年に中日ドラゴンズに監督とし初就任。
以後、阪神タイガース監督、オーナー付シニアディレクターを歴任し、2008年には北京オリンピック野球日本代表の監督を務める。
2011年からは東北楽天ゴールデンイーグルス監督を務め、2013年には自身初となる日本シリーズを制覇し、日本一となる。監督としては、リーグ優勝4回、日本シリーズ制覇1回を達成している。2014年、東北楽天ゴールデンイーグルス、シニアアドバイザーに就任。
2015年、東北楽天ゴールデンイーグルス、楽天野球団取締役副会長就任。
2017年、野球殿堂入り。
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