6月15日『奇跡体験!アンビリバボー』<300人もの人々の父親になったある男の波乱に満ちた人生の物語>として中国残留孤児の肉親さがしに半生を捧げた山本慈昭さんが特集されます。今回は、山本慈昭の経歴や死因についてとまた、嫁や娘との固い絆についてまとめました。
山本慈昭とは
山本慈昭(やまもと じしょう、1902年1月25日 – 1990年2月15日)は、日本の僧、福祉活動家。長野県下伊那郡阿智村出身。本名は山本梅雄。中国残留日本人孤児の肉親捜しに挺身し、200人以上の孤児たちと肉親たちとの再会を実現させた人物であり、「中国残留孤児の父」と呼ばれる。吉川英治文化賞第16回(1982年)受賞者。比叡山専修院附属叡山学院卒業。
nagoyanは、この記事を書くまで、山本慈昭さんの存在や「中国残留孤児の父」と呼ばれていることも恥ずかしくも知りませんでした。
しかし、nagoyanが小学生の頃にテレビで「中国残留孤児」とやっていたことを思い出します。当時はよくわかりませんでしたが。
今回記事を書くにあたり、多少なりとも山本慈昭さんの功績を知ることとなり、率直に敬意を感じました。
山本慈昭の経歴
山本慈昭さんの経歴については、小説や映画になっています。
『山本慈昭 望郷の鐘 満蒙開拓団の落日』のあらすじ
中国残留孤児の肉親探しに尽力し「中国残留孤児の父」と呼ばれた実在の人物・山本慈昭の波瀾万丈な人生を映画化。
児童文学作家・和田登の小説「望郷の鐘 中国残留孤児の父・山本慈昭」をもとに、「石井のおとうさんありがとう」の山田火砂子が監督・脚本・製作総指揮を手がけた。
1945年5月。長野県下伊那郡会地村にある長岳寺の住職で国民学校の先生も兼任する山本慈昭は、村長から説得され、1年間だけという約束で教え子たちを引率して満州へと渡る。
しかしその3カ月後にソ連軍が侵攻を開始し、慈昭はシベリアへ連行されてしまう。
約1年半の過酷な強制労働を経て奇跡的に帰国できた慈昭は故郷へと戻るが、妻と子どもたちは既に亡くなっていた。
10数年後、中国残留孤児からの手紙をきっかけに多くの日本人孤児が中国にいることを知った慈昭は、彼らを日本に帰国させるべく奔走する。主人公・慈昭をベテラン俳優の内藤剛志が演じた。
『阿智村・戦没者名簿』コツコツと作成したり、政府への抗議という行為に感銘を受けました。
当時は、携帯電話もスマホもインターネットもありません。ひたすらに歩いて調べるのは、とても体力のいる作業だったはずです。
こういった山本慈昭さんの努力があったからこそ、「中国残留孤児」という存在が世に知られたのです。
また、平岡ダム建設のために強制労働として連れてこられた中国人の遺骨返還の運動をする姿にも感動しました。
きっと、山本慈昭さんは「日本人」だから「中国人」だからといったことに囚われることなく行動したのでしょう。
今の日本は
「やっぱ中国が・・・」
「中国だから」
となっています。
ん~考えさせられますね。
嫁や娘との固い絆に感動!
昭和20年・シベリア抑留の身になった時に嫁と娘2人と離れ離れになっています。
シベリア抑留なんて今の若い人達は、知らないかもしれませんね。
1945年8月8日、ソ連は対日宣戦布告とともに中国の東北地方に攻め込み、兵士、幹部役人などの日本人およそ65万人を捕虜として
シベリア等ソ連各地の収容所に抑留。鉄道建設や採炭などの重労働に従事させた結果、およそ1割にのぼる人々が餓死、病死したという。
極寒の地シベリアで日本時が不眠不休で強制労働させられていました。
昭和22年に山本慈昭さんは帰国しました。しかしそこにまっていた現実は、嫁と娘2人の死でした。
シベリア抑留中の山本慈昭さんは、家族と会えることだけを楽しみに強制労働を耐えていたのでしょう。帰国後の嫁、娘の訃報に愕然としたに違いないです。
昭和40年に中国黒竜江省在住の中国残留日本人から手紙が届いたことで「中国残留孤児」の存在を知ります。
まだ生存している中国残留日本人孤児の存在を知り、彼らを日本の肉親に引き合せることを決意し、行動したのが、山本慈昭さんが、「中国残留孤児の父」という所です。
昭和44年に山本慈昭さんの長女が生きているとの情報が入りました。しかし実際に会えてのは、13年後の昭和57年でした。
「中国残留孤児」は、中国で中国人として、育ってきました。本慈昭さんの長女も同じで既に、中国に家族もあったため、直ぐには帰国できませんでしたが、その後日本へ帰国しました。
山本慈昭さんが長女と離れ離れになった時は4歳でした。その後は、中国人に育てられ、中国人として生きてきました。山本慈昭さんと再会した時は日本語が話せなかったのかもしれません。
映画では、山本慈昭さんと長女が微笑みながらお互いに意志疎通をはかろうとするシーンがありました。
山本慈昭さんはその後、一生涯『中国残留孤児』の為に自分の人生を捧げました。
100歳まで生きて孤児のために尽くすと意気揚揚だったが、1990年(平成2年)2月15日、慢性呼吸不全で死去されました。没年齢88歳。
葬儀場は日本全国から集まった孤児で埋め尽くされ、かつて満州で別れた教え子の1人が涙ながらに弔辞を読みました。孤児やその肉親から山本慈昭さんに送られた手紙は4万通に達し、長岳寺の門前の山本慈昭記念館に保存されています。
山本慈昭記念館ですが、名称は「満蒙開拓平和記念館」となっています。
場所は、長野県下伊那郡阿智村駒場 長野県阿智村 711-10
山本慈昭さんのお墓も近くにあります。
最後に
『奇跡体験!アンビリバボー』で山本慈昭さんが特集されることによって、また『シベリア抑留』、『中国残留孤児』について我々は考えなければいけなかもしれません。
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